
ギリシア神話
トロイア戦争はギリシャ神話に伝わる大戦である。トロイア王子パリスがスパルタ王妃ヘレネを誘拐したことをきっかけに、アカイア人が軍を起こしてトロイアの都を包囲した。これはギリシャ神話における重要な出来事であり、ホメロス叙事詩に記録されている。
トロイア戦争は、ギリシア神話のなかでも最も壮大で悲劇的な戦争物語の一つである。小アジア北西部の都市トロイアと、ギリシア各地から集まったアカイア勢とのあいだで戦われた。神話上の直接の発端は、トロイア王子パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことにある。しかし、その奥には、神々の争い、英雄たちの誓約、王家の名誉、運命の呪い、そして人間の欲望が複雑に絡み合っている。 古代ギリシア人にとって、この戦争は英雄時代を象徴する大事件であった。ホメロスの『イリアス』は戦争全体を語るのではなく、包囲十年目におけるアキレウスの怒りと、その帰結を中心に描く。『オデュッセイア』は戦後、オデュッセウスが長い漂泊を経てイタケへ帰る物語である。黄金の林檎、パリスの審判、ヘレネの出奔、アウリスの犠牲、アキレウスの死、木馬によるトロイア陥落、そしてギリシア英雄たちの苦難の帰郷は、他の叙事詩、悲劇、断片的伝承、後世文学によって補われてきた。
戦争の根は、テッサリアの英雄ペレウスと海の女神テティスの婚礼にまでさかのぼる。宴には神々が招かれたが、不和の女神エリスだけは除かれた。怒ったエリスは「最も美しき者へ」と刻まれた黄金の林檎を宴席に投げ入れる。ヘラ、アテナ、アフロディテはそれぞれ自分こそふさわしいと主張し、ゼウスは自ら裁くことを避け、トロイア王子パリスに判定を委ねた。
パリスはトロイア王プリアモスと王妃ヘカベの子である。出生前、ヘカベはトロイアが炎に包まれる夢を見たとされ、予言者たちはその子が都市に破滅をもたらすと解釈した。生まれたパリスはイダ山に捨てられたが死なず、牧人に育てられた。後に競技で素性を示し、王家へ迎え戻される。
三女神はパリスの前に現れ、それぞれ報酬を約束した。ヘラは王権を、アテナは知恵と戦勝を、アフロディテは世界で最も美しい女性を与えると言った。パリスはアフロディテを選び、愛の女神の庇護を得ると同時に、ヘラとアテナの憎しみをトロイアへ招いた。
その女性こそスパルタ王妃ヘレネであった。ヘレネの美はギリシア中に知られ、多くの英雄と王が求婚した。父テュンダレオスは争いを避けるため、ヘレネが選んだ夫を全員で守るという誓約を求婚者たちに立てさせた。ヘレネはメネラオスを選び、彼は後にスパルタ王となる。
パリスはアフロディテに導かれてスパルタを訪れた。メネラオスは客人として彼をもてなしたが、やがて用事でクレタへ向かう。その留守に、パリスはヘレネと財宝を携えてトロイアへ帰った。彼女が誘拐されたのか、自ら赴いたのかは伝承によって異なる。しかしギリシア人にとって、それは婚姻と客人の神聖な掟を破る行為であった。
メネラオスは兄であるミケーネ王アガメムノンに助けを求めた。かつての誓約が呼び起こされ、ギリシア各地の王と英雄が集結する。個人的な屈辱は、エーゲ海を越える大遠征へと変わった。
ギリシア連合軍の総大将はミケーネ王アガメムノンであった。スパルタのメネラオス、ピュロスの老王ネストル、アルゴスのディオメデス、サラミスの大アイアス、ロクリスの小アイアス、クレタのイドメネウス、イタケのオデュッセウス、そして後に加わるアキレウスらが遠征に参加した。伝承では一千隻を超える艦隊が語られ、壮大な「千隻の遠征」の像が生まれた。
だが、すべての英雄が進んで参戦したわけではない。新婚で幼子テレマコスを持つオデュッセウスは、狂気を装って徴召を逃れようとした。だがパラメデスが赤子を鋤の前に置くと、オデュッセウスは思わず止まり、偽りは露見した。彼は誓約を果たさざるを得なくなる。
アキレウスはさらに不可欠な存在であった。予言は、彼なしにトロイアは落ちないと告げていた。しかし母テティスは、彼が赴けば不朽の名声を得る代わりに若くして死ぬことを知っていた。彼女は息子をスキュロス島に隠したが、オデュッセウスとディオメデスが武器と宝飾を並べ、警報の音を響かせると、アキレウスだけが武器を取った。彼は正体を知られ、親友パトロクロスとともに遠征へ加わった。
艦隊はアウリスに集まった。出発前、蛇が母鳥と八羽の雛を呑み、石になるという不吉な兆しが現れた。予言者カルカスは、九年の苦戦と十年目の勝利をそこに読み取った。だが逆風が船出を阻み、さらにアルテミスの怒りを鎮めるため、アガメムノンの娘イフィゲネイアの犠牲が求められた。彼女が実際に犠牲となったのか、女神に救われたのかは伝承により異なる。いずれにせよ、遠征は血と家族の呪いの影のもとに始まった。
艦隊はついにトロイアの海岸へ到達した。最初にトロイアの地を踏むギリシア人は最初に死ぬ、という予言があった。オデュッセウスは盾を岸へ投げ、その上に跳び下りて地面を直接踏まなかった。栄光を求めるプロテシラオスが続いて上陸し、ヘクトルに討たれる。戦争は予言の成就とともに始まった。
ギリシア軍は船を引き上げ、海岸に陣を築いた。アキレウスと大アイアスは両翼を守り、アガメムノンとオデュッセウスは中央に構えた。和平交渉ではヘレネと財宝の返還が求められたが、パリスは拒み、トロイアは抗戦を選んだ。
戦争は単純な完全包囲ではなかった。トロイアの城壁は堅く、双方とも決定的勝利を得られない。ギリシア軍は周辺都市や同盟勢力を襲い、物資を得て圧力をかけた。アキレウスはそのなかで名を高め、多くの町を落とし、ブリセイスとクリュセイスを戦利品として得た。
九年にわたる歳月のなかで、両軍の英雄は倒れ、憎しみは運命のように固まっていった。トロイアの守りの中心は、プリアモスの最も気高い息子ヘクトルである。パリスが戦争に火をつけたとしても、その重荷を背負ったのはヘクトルであった。彼は父母、妻子、祖国のために城門を出て戦い続けた。
『イリアス』は十年目、ギリシア陣営を襲う疫病から始まる。アポロンの祭司クリュセスが娘クリュセイスの返還を願って来たが、アガメムノンは彼を侮辱して拒んだ。アポロンはその祈りに応え、ギリシア軍へ疫病を放つ。
カルカスは、クリュセイスを返さねば疫病は止まらないと告げる。アガメムノンはやむなく従うが、その代償としてアキレウスのブリセイスを奪う。アキレウスにとって、それは捕虜を失うこと以上に、公然たる名誉の否定であった。彼は怒りに駆られ、アガメムノンを殺しかけるが、アテナに止められる。そして戦いから退く。
アキレウスは母テティスに頼み、ゼウスがギリシア軍を苦しめるよう願わせた。ゼウスはそれを聞き入れ、戦況はトロイアへ傾く。メネラオスとパリスの一騎打ちは戦争を終わらせる可能性があったが、アフロディテがパリスを救い、休戦は崩れた。
ディオメデスはアテナの助けを得て、アフロディテとアレスをも傷つけるほど奮戦する。ヘクトルは一度トロイアへ戻り、妻アンドロマケと幼子アステュアナクスに会う。彼は都市の破滅を予感しながらも、責任から逃げなかった。やがて彼はギリシア勢に挑み、大アイアスと一騎打ちをする。夜が勝負を止め、二人は互いを認めて贈り物を交わした。
アキレウス不在のなか、ヘクトルは攻勢を強めた。ゼウスは運命を量り、トロイアに勝勢を与える。ギリシアの英雄たちは次々と傷つき、士気は落ち、トロイア軍はついにギリシアの防壁を破って船へ迫った。
アガメムノンは過ちを悟り、オデュッセウス、ポイニクス、大アイアスを遣わして、贈り物とブリセイスの返還を約束した。しかしアキレウスは拒む。屈辱は深く、名誉を失ったままの栄光には意味がなかった。
船が焼かれようとする危機に、パトロクロスはアキレウスへ懇願した。彼の鎧を借り、ミュルミドン勢を率いて出陣したい、と。アキレウスは船を救うだけで深追いするなと戒めて許した。パトロクロスはトロイア勢を押し返し、サルペドンを討つが、勝利の勢いに駆られて城壁近くまで進みすぎる。アポロンに打たれ、エウポルボスに傷つけられ、最後はヘクトルの手に倒れた。パトロクロスの死によって、アキレウスの怒りは悲嘆と復讐へ変わる。
パトロクロスの死はアキレウスを一変させた。彼はアガメムノンと和解し、ヘパイストスが鍛えた新たな武具をまとって戦場へ戻る。その盾には、都市、畑、婚礼、戦争、星々、季節といった人間世界の全体が刻まれていた。
戦場へ戻ったアキレウスは、もはや人間を超えた存在のようであった。彼の殺戮は凄まじく、河神スカマンドロスさえ怒り立つ。ついにトロイア勢は城内へ逃げ込み、ヘクトルだけが城外に残った。プリアモスとヘカベは彼に戻るよう叫ぶが、恥と責務が彼をそこに留めた。
アキレウスが迫ると、ヘクトルは恐れ、城壁の周りを三度逃げた。アテナは彼を欺き、立ち止まらせる。ヘクトルは勝者が敗者の遺体を返すことを求めるが、アキレウスは拒む。二人は戦い、アキレウスは鎧の隙間を突いてヘクトルを殺した。
アキレウスはヘクトルの遺体を戦車に結び、引きずっていく。トロイアは恐怖と悲嘆に包まれた。だが物語は憎しみだけでは終わらない。老王プリアモスは夜、アキレウスの陣へ赴き、息子を殺した手に口づけし、遺体の返還を乞う。アキレウスは自らの父を思い出し、涙を流して承諾した。『イリアス』はトロイアの陥落ではなく、ヘクトルの葬儀で終わる。
『イリアス』の後も戦争は続いた。アマゾンの女王ペンテシレイアがトロイアを助けに来るが、アキレウスに討たれる。エチオピア王メムノンも来援し、ネストルの子アンティロコスを殺すが、やはりアキレウスに倒された。
しかしアキレウス自身の運命も近かった。後世の伝承では、パリスがアポロンの助けを得て放った矢が、彼の唯一の弱点である踵を射抜いた。ギリシア最大の戦士は、トロイアの前で死んだ。
彼の神の武具をめぐり、大アイアスとオデュッセウスが争う。武具はオデュッセウスに与えられ、屈辱を受けたアイアスは狂気に陥り、自ら命を絶った。ギリシア軍は勝利に近づきながら、最大の英雄たちを失っていく。
さらに予言は、ヘラクレスの弓を持つピロクテテスの帰還、アキレウスの子ネオプトレモスの参戦、パラディオンの奪取、トロイアの秘密の入手を求めた。条件は満たされ、ピロクテテスはパリスを射殺する。だがトロイアはなお落ちなかった。
ついにオデュッセウスは木馬の計を考え出す。巨大な木馬が造られ、選ばれた戦士たちがその内部に隠れた。残りのギリシア軍は撤退を装って出航し、近くで待機した。
トロイア人は海岸に残された木馬を見つけた。焼くべきだという者も、城内へ入れるべきだという者もいた。ラオコオンはギリシア人の贈り物を信じるなと警告し、槍で木馬を突いた。しかし残されたギリシア人シノンは、これはアテナへの奉納物で、城内に入れればトロイアに祝福があると偽った。海から現れた蛇がラオコオンと息子たちを殺すと、人々はそれを神意と見なした。
カッサンドラも破滅を予見して警告したが、誰も信じなかった。木馬は城内へ引き入れられた。その夜、勝利を祝って眠る都市のなかで、隠れていたギリシア兵が出て城門を開いた。戻ってきた軍勢がなだれ込み、火と剣と叫びがトロイアを満たした。
プリアモスは祭壇で殺され、アステュアナクスは城壁から投げ落とされ、カッサンドラはアテナの神殿で辱められ、アンドロマケやヘカベら王家の女たちは捕虜となった。十年耐えたトロイアは、力ではなく、勝利の贈り物に見せかけた欺きによって滅びた。
トロイアは陥落したが、勝者に平安は訪れなかった。略奪のなかでギリシア人は神々を冒涜し、その帰路は罰の道となった。
アガメムノンはカッサンドラを連れてミケーネへ帰るが、妻クリュタイムネストラとアイギストスに殺される。彼女の怒りは、イフィゲネイアの犠牲と、夫が捕虜の女を伴って帰ったことに根差していた。その死はオレステスの復讐と、アトレウス家の悲劇へつながる。
小アイアスは海で死に、メネラオスとヘレネは長く漂泊してスパルタへ戻った。オデュッセウスの帰郷は最も長く、怪物、魔女、難破、誘惑、喪失を経て、十年後ようやくイタケへ帰り、求婚者たちを討って家を取り戻した。
一方、アイネイアスは燃えるトロイアから父アンキセスを背負って脱出し、生き残りを率いて西へ向かった。ローマの伝統、とりわけウェルギリウスの『アエネーイス』では、彼の旅はローマ建国神話の種となる。
トロイア戦争は、単なるギリシアの勝利でもトロイアの敗北でもない。それは英雄時代の終わりであり、勝者も敗者も、燃えた都市の火によって深く傷つけられた。
古代ギリシア人は、トロイア戦争を遠い過去の出来事と信じていた。しばしば紀元前十三世紀から十二世紀に置かれる。近代にはその実在性が疑われたが、現在のトルコ、ヒサルリクでの発掘により、トロイアに比定される古代都市の重層的遺構が確認された。
神話上の戦争が一つの具体的な史実に対応するかは、なお確かではない。多くの研究者は、ミケーネ人の遠征、交易上の緊張、小アジア西部の戦争、城塞都市の破壊といった青銅器時代の記憶が重なり、後に一つの物語へ結晶したと考える。青銅器時代末期に破壊されたトロイアVII層は、その文脈でしばしば論じられる。
したがってトロイア戦争は、神話であると同時に文化的記憶でもある。そこには実際の戦争の反響が残っているかもしれないが、詩人、悲劇作家、歴史家、後世の文明によって、欲望、名誉、怒り、破滅、帰郷をめぐる物語へと磨き上げられてきた。