
ギリシア神話
トロイアの王妃ヘカベーは、燃えるたいまつを産む夢を見て、その子が国に災いをもたらすと告げられる。生まれたパリスはイダ山に捨てられるが、死なずに育ち、のちに競技を通じて王家のもとへ戻ってくる。
プリアモスとヘカベーがトロイアを治めていたころ、王妃は子を身ごもっていた。出産を前にした夜、彼女は、柔らかな赤子ではなく、燃えさかるたいまつを産む夢を見る。炎はたちまち大きくなり、トロイアの屋根も城壁も神殿も呑みこもうとした。夢の意味を聞かれた予言者は、その子が生きのびれば、やがてトロイアを滅ぼすと告げる。 プリアモスは、わが子を自分の手で殺すこともできず、かといって予言を軽く見ることもできなかった。そこで生まれたばかりの男児をある従者に託し、イダ山に捨てるよう命じる。ところが、捨てられた子は数日たっても生きていた。山の母熊が乳を与え、野獣も寒さも彼を奪えなかったのである。従者は心を変え、その子を連れ帰って自分の家で育てた。 やがてその子はパリスと呼ばれ、別名をアレクサンドロスともいった。山の牧人として成長した彼は、牛や羊を守り、盗みを働く者たちを追い払った。自分が特洛伊の王子だとは知らず、ただ山道と泉と草地、そして家畜の気性だけを知っていた。 のちにプリアモスは、失われた息子を記念して競技を開き、イダ山へよい牡牛を探しに人を遣わす。選ばれたのは、パリスがかわいがっていた牛だった。彼はそれを惜しみ、牛とともにトロイアへ下る。競技に加わると、王子たちを次々に打ち負かし、憎しみと怒りを呼び起こす。危機のさなか、カッサンドラが彼の正体を見抜く。プリアモスとヘカベーはついに彼を宮殿へ迎え入れるが、あのたいまつの夢もまた、彼とともにトロイアへ戻ってきたのだった。
トロイアの都は高台にあり、城壁の外には平原が広がり、さらにその先には海へ向かう道がのびていた。プリアモスが王位にあったころ、城には厩舎があり、祭壇があり、宮殿があり、にぎやかな通りもあった。王妃ヘカベーは宮殿の奥深くに住み、すでに王家の子どもたちを産んでいたが、のちにもうひとりの子を身ごもった。
その子がまだ生まれぬうちに、ヘカベーは胸騒ぎのする夢を見た。
臨月を迎えた彼女の手の中に、柔らかな赤子ではなく、燃え上がるたいまつがあったのである。たいまつは彼女の腕を越え、寝台の帳を越え、炎を高くのばしてトロイアへと走った。屋根は真赤に照らされ、城門は熱せられた青銅のように輝き、神殿の柱も高い壁も、火の中で揺らいでいた。ヘカベーが夢から目を覚ますと、肌には冷たい汗がにじんでいた。
彼女はこの夢をプリアモスに語った。聞き終えた王の胸にも、重いものが落ちた。そこで彼は予兆を読む者たちを呼び、その意味を問うた。予言者たちは、耳ざわりのよいことは言わなかった。王妃の腹の子はトロイアに大きな災いをもたらす。この子を生かしておけば、いつか必ず火はこの都に届く、と告げたのである。
宮殿はしんと静まり返った。外では馬のいななきが響き、従者たちは回廊を行き来していたが、プリアモスもヘカベーも、その夢がすでに頭上にのしかかっていることを知っていた。
やがて子は生まれた。男の子だった。産声をあげたばかりの彼は、ほかの新生児と変わらず泣き、指を丸め、襁褓の中で顔をしかめていた。ヘカベーはその小さな命を見つめ、夢のたいまつと目の前のか弱い赤子とを、どうしても結びつけることができなかった。
けれど、予言者の言葉は消えない。プリアモスは父であると同時に王でもあった。自分の哀れみのせいで都が滅ぶのではないかと恐れたが、だからといって、生まれたばかりの息子を自ら殺すこともできなかった。ついに彼は信頼できる従者を呼び、子を託してイダ山へ連れていき、そこで捨てるよう命じた。
従者は赤子を抱いて宮殿を出た。トロイアの城門が背後で閉じると、彼は山地へ通じる道をたどった。松の枝を風が鳴らし、草の斜面には羊の群れが残した細い道があった。人の気配の薄い場所まで来ると、彼は子を山に置いた。襁褓を少し整えただけで、まともに顔を見ることもできず、そのまま背を向けて去った。
山は夜になれば冷え、昼には獣がうろつく。まともに考えれば、あんな小さな子が何日も生きのびるはずはなかった。ところが数日して、従者の胸は落ち着かなくなり、もう一度その場所へ戻ってみた。空の襁褓しかないだろうと覚悟していたのに、近づくと、かすかな泣き声が聞こえたのである。
子は、まだ生きていた。
伝えによれば、山にいる母熊がやって来て、その乳で彼を養ったという。トロイアに見捨てられたこの赤子は、夜に呑まれることもなく、野獣に裂かれることもなかった。従者はその場に立ち尽くし、やがて心を曲げた。彼は子を抱き上げ、自分の住まいへ連れ帰って、ひそかに育てることにした。
この子は、のちにパリスと呼ばれるようになる。もう一つの名はアレクサンドロスで、山の牧群を守り、牛や羊を狙う盗人を追い払う者としてそう呼ばれた。
彼は自分の素性を知らなかった。ただイダ山のふもとで育った少年として、毎日を過ごしていた。朝になれば、露の残る草地へ牛や羊を追いたてる。昼には木陰で笛を吹き、風の中に鳴る鈴の音を聞く。夕暮れには、はぐれた家畜を囲いへ戻す。泉は岩の割れ目から流れ、松葉は道に散り、牧人の暮らしはつらくとも、どこか素朴だった。
パリスは美しい若者に育ち、身のこなしも軽かった。投げ槍もできたし、野獣を追うこともできた。夜には木の杖を手に、羊囲いのそばに立って見張ることもあった。山道を下ってきた盗賊が、闇にまぎれて牛を奪おうとすれば、仲間を連れて追い、家畜を取り返した。山の者たちは、この若い牧人を甘く見てよい相手ではないと知るようになった。
彼のそばには、ひときわ大きく力強い牡牛がいた。角は硬く、首は太く、歩くたびに土の道が鳴った。パリスはその牛を気に入り、まるで宝物のように大切にしていた。その牛は牧群の中でも目立っており、だれが見ても、競技の賞品にふさわしい上等な一頭だった。
年月がたっても、プリアモスはあの捨てた息子のことを忘れていなかった。人々は、子はすでに山で死んだものと思っていた。だが王はその子を記念するため、競技を催し、若者たちに角力や徒競走、力比べをさせ、勝者にはよい牛を与えることにした。
賞品を選ぶため、宮殿からイダ山へ使者が送られた。彼らは牧群を見まわし、その中から、パリスの愛する牡牛を選び出した。それを連れていこうとすると、パリスは惜しんで、牛とともに山を下りることにした。自分が生まれた場所へ向かっていることなど、まだ知るよしもない。ただ、自分の牛がわけもなく奪われるのが我慢ならなかったのである。
トロイアの城門が目の前に現れたとき、彼はただ山から来た牧人にすぎなかったのかもしれない。高い城壁、にぎやかな通り、陽の光を受けて輝く宮殿の屋根。競技場にはすでに大勢の人が集まり、王子たちや貴族の若者たちが出場の支度をしていた。
その牛が賞品にされると知ると、パリスは腹を立てた。彼は競技への参加を願い出る。山育ちの服装を見て、人々は笑い、ある者は見下した。だが、彼は引き下がらなかった。
やがて競技が始まると、笑い声は少しずつ消えていった。
彼は徒競走で風のように走り、角力ではしっかりと踏みこたえ、力比べでも簡単には倒れなかった。宮殿で鍛えられてきた若者たちが、ひとり、またひとりと彼に負けていく。見物人たちは口々に言いはじめた。このイダ山から来た牧人は、いったい何者なのか。どうしてあれほどの力と度胸を持っているのか、と。
王子たちは面白くなかった。とりわけプリアモスの息子たちは、見知らぬ者に自分たちの面目を潰されたことで、恥と怒りに震えた。山育ちの若者ごときが王家の競技で上に立つなど、と考える者もいた。怒りが高まると、ついには彼を殺そうとする者まで現れた。
パリスはただならぬ気配を察し、振り返って逃げた。人波をかき分け、宮殿の近くにある祭壇へ駆け込む。祭壇は家の神々と結びついた聖なる場所で、危機に追われた者がそこにすがれば、最後の守りになる。彼は祭壇にしがみつき、絶対に離れようとしなかった。
追いかけてきた者たちは足を止めた。祭壇の前で手を下すことには、ためらいがあったのである。そこへ、カッサンドラが姿を見せた。
彼女はプリアモスとヘカベーの娘で、いつも不吉な予言を口にすることで知られていた。人々はしばしばその言葉を嫌ったが、このとき彼女は祭壇のそばに立つ若者を見つめ、その来歴を見抜いた。彼女は言った。この追われている牧人は、よその者ではない。かつてイダ山に捨てられたあの子であり、ヘカベーの夢に出たたいまつであり、プリアモスが失った息子なのだ、と。
その言葉は、水面に石を投げ込んだように、あたりにざわめきを広げた。プリアモスはそれを聞いて深く揺さぶられた。死んだものと思っていた息子が、いまや生きたまま、祭壇のそばで若々しく立っているのである。ヘカベーもそこへ来て、パリスの顔を見た。その怯えと意地を宿した表情を見た瞬間、母としての心は、もはや彼をよその者とは思えなかった。
当時の従者も、いずれ事の次第を語ったのだろう。子は山に捨てられたが死なず、のちにひそかに育てられたのだ、と。そうして、ひとつひとつの出来事が、ぴたりとつながっていった。あの夢も、あの赤子も、あの別れも、すべてが王宮の前へと戻ってきたのである。
プリアモスは、もう彼を殺させなかった。パリスを家へ迎え入れ、トロイアの王子として認めたのである。失った子を取り戻したヘカベーは、もちろん喜んだ。宮殿でも彼のために王家の衣を用意し、正式な身分を与えた。山の牧人だった青年は、都の人々の視線を集める王子へと変わった。
けれど、カッサンドラの言葉は消えなかった。多くの者は祝いに気を取られ、あの予言をすでに過ぎ去った悪夢のように忘れようとした。だが、夢の中のたいまつは、ただしばらく宮殿の奥にしまわれていただけだったのかもしれない。パリスは両親のもとへ戻ったが、トロイアはかつて捨てようとした運命を、自分の手で城の中へ連れ戻してしまったのである。