
ギリシア神話
ヘラクレスはエウリュステウスの命を受けてネメアへ向かい、武器を寄せつけない巨大な獅子を討とうとする。弓も剣も通じず、最後は洞を塞いで素手で締め殺し、その皮をまとってミュケナイへ帰った。
ヘラクレスは罪を負ってエウリュステウスの下で働くことになり、最初の命令としてネメアの獅子を討つよう命じられた。その獅子は凶暴で、皮は岩のように堅く、村人たちは畑へ出ることも、ひとりで道を歩くこともできなかった。 ヘラクレスはまず矢を放ち、ついで剣を振るったが、どちらも獅子の体を通さなかった。やがて狭い洞へ追い込み、出口をふさぐと、ついに素手でその喉を締め上げて殺した。彼は獅子の皮を剥いで肩にかけ、こうして最初の大仕事を果たした。
ヘラクレスがミュケナイに着くと、エウリュステウスが最初に言いつけたのは、ネメアの獅子を討てという命令だった。
それはただの山野の獣ではない。ネメアはアルゴスの一帯にあり、本来なら丘や谷あいに牧人の笛が響き、畑では農夫が土を起こしているはずの場所だった。だが、その獅子が現れてからというもの、人々は遠くへ出るのを恐れ、牛や羊は山へ引きずり込まれ、夜になると岩穴の方から低いうなり声が聞こえた。槍で突いた者も、矢を射かけた者もいたが、矢尻は毛皮に弾かれ、硬い石に当たったように落ちてしまう。爪は木の囲いを裂き、牙は骨まで砕いたので、ネメアの近くは誰も寄りつけない土地になっていった。
古い伝承では、この獅子は恐ろしい怪物の血を引き、ヘラがネメアの地に育てて、人々の災いにしたとも語られる。エウリュステウスはそうした話を聞き知っていて、このいちばん危険な仕事をヘラクレスに押しつけた。強い従兄弟を獅子に殺させることができればよし、たとえ生き残っても苦しむ姿を見られる。そんな腹づもりもあったのだろう。
ヘラクレスは多くを語らなかった。弓と矢筒を取り、剣と大棍棒を携えて、ミュケナイを出ると、そのままネメアへ向かった。
道々、彼が獅子を探しに行くと聞いた人々は、みな顔をこわばらせた。山へ入るなと止める者もいれば、ただ遠くから場所を指し示して、あわてて戸を閉める者もいた。畑は荒れ、垣は倒れ、羊小屋には折れた柱だけが残っている。風が丘をなでるたび、草むらが低く伏せ、何かがそこを通ったばかりのように見えた。
やがてヘラクレスは、粗末な小屋にたどり着いた。家の主はモロルコスという老人で、貧しかったが、旅人を迎え入れて座らせるだけの親切は持っていた。ヘラクレスが獅子退治に向かったと知ると、老人は敬意と不安の入り混じった顔をした。そして、まずは家にある家畜をひとつ屠って、神々に祈ろうと考えた。
だがヘラクレスはそれを止めた。
「まだ早い。三十日だけ待ってくれ。もしその間に私が帰ったら、ゼウスにいけにえを捧げ、無事の帰還を祝おう。もし戻らなければ、そのときは私に供えてくれ。死者にするように、私を弔ってほしい。」
老人は黙ってうなずいた。ヘラクレスが武器を取り直して山へ分け入る姿を、じっと見送った。その背は、土ぼこりと陽光の中で少しずつ小さくなり、やがて低木と岩に隠れて見えなくなった。
ヘラクレスは山の中で、獅子の足跡を追った。地面には大きな爪痕が残り、脇では土が深く掘り返されている。引きずられた牛の骨には、まだ新しい裂け目があった。血の跡は石の割れ目に沿って途切れながら続き、やがて乱れた岩場へと消えていた。
ほどなくして、咆哮が山に響いた。
獅子が岩陰から姿を現した。たてがみは荒れ、肩は高く盛り上がり、目は焼けた炭のように光っている。ヘラクレスを見ると、普通の獣のように逃げるどころか、体を沈め、尾を振りながらじりじりと近づいてきた。
ヘラクレスはまず弓を取って弦を引き絞り、矢を放った。矢は獅子の胴に命中したが、刺さりもしないで地に落ちた。二本目も三本目も同じだった。鋭い矢じりは毛皮をかすめて音を立てるだけで、少しも傷をつけられない。
怒った獅子が一気に飛びかかる。ヘラクレスは身をかわして剣を抜き、切りつけた。だが刃は、まるで堅い青銅の甲冑にでも当たったように弾かれる。獅子は振り向いて牙をむき、熱い獣の息を顔先に吹きつけた。ヘラクレスは大棍棒を振り上げ、その頭に思いきり叩きつけた。
山の岩まで鳴るほどの一撃だった。獅子はよろめき、少し後ずさった。だが死んではいない。首を振って気を取り直すと、近くの洞へ逃げ込んだ。
ヘラクレスが追いついたとき、その洞がひとつの行き止まりではないと気づいた。山腹を貫く穴で、出口はふたつあった。こちらから追い詰めても、向こうから逃げられてしまう。暗い穴へそのまま入れば、背後から襲われる危険もある。
ヘラクレスはしばらく洞の前で様子を見たあと、大きな岩を運んできて、ひとつの入口をふさいだ。石を一つずつ押し込み、すき間に砕石を詰めて、逃げ道を完全に塞ぐ。そうしてから、棍棒を握り直し、もう一方の口から身をかがめて入っていった。
洞の中は冷たく、闇が深かった。足もとには砕けた骨や湿った土が散らばっている。外の光は背後でだんだん細くなり、奥からは獣の荒い息が聞こえてきた。獅子は暗がりに身を潜め、低く唸った。その声は石壁に反響し、洞そのものが吠えているようだった。
ヘラクレスは引き返さなかった。さらに進むと、やがて黒い闇の中で、ぎらりと光る目がすぐ目の前に迫った。獅子が跳びかかる。ヘラクレスは棍棒を振り下ろしたが、狭い洞では思うように力が入らず、石壁を打って腕がしびれた。獅子の爪が脇腹をかすめ、衣を裂き、皮膚に血筋を残す。
そこでヘラクレスは、棍棒を捨てた。
そして獅子に体当たりするように飛びつき、片手でその喉元をつかみ、もう片手で首を抱えこんだ。獅子は転がり、蹴り、身をよじり、爪で岩を削って耳障りな音を立てた。牙を立てようとしても、喉は鉄の輪のような腕に締めつけられて、思うように開かない。ヘラクレスは全身の力を込め、膝でその胴を押さえつけ、腕をじりじりと締め上げた。
洞に響いていた咆哮は、しだいに荒い息へ変わっていく。やがてその抵抗も弱まり、爪が地面をかく音が止まった。
ネメアの獅子は、とうとう死んだ。
ヘラクレスは死んだ獅子を洞から引きずり出した。陽の光を受けた毛皮は、なお硬く光っていた。彼はその皮を剥いで戦利品にしようとしたが、刃はまるで通らない。矢が効かなかったときと同じで、人の作った鉄器では傷をつけられなかったのだ。
何度か試した末、ヘラクレスは獅子自身の爪を使うしかないと悟った。その鋭い爪なら、ようやく厚い皮を裂くことができた。彼は少しずつ毛皮を剥ぎ取り、大きな頭は兜のように残し、皮は肩にかけた。こうして、刀も矢も通さぬ皮は、彼自身の守りとなった。獅子の顔が額の前に垂れ、たてがみが背を覆う姿は、遠目にはまるで山からさらに恐ろしい獣が出てきたように見えた。
三十日の約束が近づくころ、モロルコスは祭りの支度をしていた。ヘラクレスが生きて帰るのか、それとも二度と戻らないのか、知らぬまま待っていたのである。するとそのとき、山道の向こうから人影が現れた。肩には獅子の皮、手にはあの恐ろしい獣の獲物がある。老人はぎょっとしたが、それがヘラクレスだとわかると、ようやく胸をなで下ろした。
ふたりは約束どおり、神にいけにえを捧げた。ヘラクレスの無事な帰還を感謝し、ネメアの人々もまた、あの人畜を食い荒らしていた獅子が、もう洞から出てこないのだと知った。
ヘラクレスは獅子の皮をまとってミュケナイへ戻った。町の人々は遠くから彼を見て、道をあけた。あの皮は、生きた獣そのもののように見えたからだ。獅子の頭をかぶった姿は、空ろな目と牙のせいでなおさら恐ろしい。門に怪物が現れたのかと勘違いして、叫び声を上げる者までいた。
エウリュステウスはその知らせを聞いて、ヘラクレスがネメアで死ぬものとばかり思っていたのに、逆に獅子を討ち果たして帰ってきたと知った。しかもあの皮をまとった姿を目にすると、ますます怯えた。彼はヘラクレスに直接会おうとせず、ついには青銅の甕の中へ身を隠し、そこから外の様子をうかがう始末だった。
それ以来、エウリュステウスはヘラクレスを城の中へ入れず、仕事の命令も伝令のコプレウスを通して伝えるようになった。王座に座りながら、声だけは他人の背後に隠しているようなものだった。
こうしてヘラクレスは、最初の労役を終えた。ネメアの山道には再び人が通い、畑には牧人の足跡が戻りはじめた。そして刀槍の通らぬ獅子の皮は、その後もヘラクレスの肩にかかり、彼を次なる危険へと連れていくことになる。