
ギリシア神話
若きディオニュソスはひとり海辺に立っていたところを、裕福な家の少年と見なした海賊たちにさらわれ、船へ連れ込まれる。海賊たちは彼を売り払おうとするが、海の上で葡萄の蔓、野獣、そして神のしるしを目の当たりにし、ついには次々と海へ飛び込み、イルカへ姿を変えられてしまう。
海賊たちは長船で岸沿いを進み、奪える荷やさらえる人間を探していた。やがて彼らは、柔らかな衣をまとい、ひとり海辺に立つ美しい少年を見つける。富豪の息子だと思い込んだ彼らは、遠くへ連れていって金に替えようと考え、岸へ上がって少年の手を縛り、船首へ押し上げた。 少年は抵抗しなかったが、手首の縄はひとりでにほどけて甲板へ落ちた。船の舵取りはただならぬ気配を感じ、船長に、この少年は神か神に愛された者かもしれない、今のうちに岸へ返すべきだと忠告する。だが船長と海賊たちは身代金と奴隷市場のことしか考えず、その言葉を笑い飛ばして帆を上げた。 船が沖へ出ると、神のしるしが次々に現れる。甲板の隙間から甘い酒が湧き、葡萄の蔓が帆柱へ這いのぼり、蔦が帆と縄を覆い、船は巨大な手に押さえられたように海の上で動かなくなった。少年が立ち上がると、その姿には神の威厳が宿り、船首には獅子が、甲板の中央には熊の影が現れた。海賊たちは、自分たちがさらったのが富家の少年ではないと悟る。 恐怖に駆られた海賊たちは次々と海へ飛び込み、波の中で体を変えられていった。腕はひれとなり、背は弓なりに曲がり、彼らはイルカになった。ただひとり、少年を解放するよう仲間に忠告していた舵取りだけは助かる。ディオニュソスは彼に恐れるなと告げ、自分がゼウスとセメレの子であることを明かした。それ以来、人々は船を追うイルカを見るたび、貪欲な者に下されたこの神罰を思い出した。
海風が岸へ吹き寄せ、波は何度も岩に砕けていた。その日、一隻の長い船が海岸沿いを進んでいた。海賊たちの船である。船腹は塩水に黒ずみ、櫂を握る男たちは腕をむき出しにして、岸の上をじっと見張っていた。奪える荷や、さらって売れる人間を探していたのである。
やがて彼らは、ひとりの少年を見つけた。
少年は海辺にただ立っていた。身には柔らかな衣をまとい、髪は黒く、肩のあたりにはかすかな光が宿っているように見えた。漁師にも見えず、道に迷った牧人にも見えない。足もとに荷はなく、そばに従者もいない。ただ静かに海を眺めていた。
それを見た海賊たちの胸に、たちまち欲がわいた。
船長が低い声で言った。
「どこかの富豪の息子だ。捕まえて遠くへ連れていけば、たっぷり金になるぞ」
船は岸へ近づいた。屈強な海賊たちが何人か飛び降り、濡れて滑る岩を踏みながら少年を取り囲んだ。少年は逃げもせず、助けを呼びもしなかった。ただ顔を向け、彼らを見つめた。
海賊たちは、なおさらたやすい獲物だと思った。彼らは縄で少年の手首を縛り、船へ押し上げた。
少年は船首に腰を下ろした。その表情はあまりに静かで、まるで捕らわれの身ではなく、招かれて船に乗った客のようだった。
船には、ひとりの舵取りがいた。長く海に生き、風を読み、波を知る男で、ほかの者たちより用心深かった。彼は少年を見つめるうちに、どうにも胸騒ぎを覚えた。
縄はたしかに少年の手に巻きついていた。ところが、それはいつのまにかひとりでにほどけ、見えない手に解かれたかのように甲板へ滑り落ちた。少年はその隙に逃げようともせず、ただ目を上げて、船の男たちを静かに見渡した。
舵取りはぞっとして、急いで船長に言った。
「あの子を連れて行ってはいけません。普通の人間ではありません。神そのものか、あるいは神に愛された子かもしれない。今ならまだ間に合います。岸へ戻してやりましょう」
海賊たちはそれを聞いて笑う者もあり、臆病者めと罵る者もあった。船長はなおさら聞き入れなかった。彼の目には少年の美しい衣しか映っていなかった。頭の中にあるのは身代金と奴隷市場のことばかりで、手に入れた獲物を手放す気などなかった。
「黙れ」と船長は言った。「帆を上げろ。岸へは戻らん」
帆柱に帆が広げられ、海風が帆布をふくらませた。船は岸から遠ざかっていった。岩場はしだいに小さくなり、白い波しぶきも船尾の向こうへ置き去りにされた。海賊たちはもう成功したつもりになり、少年をどこへ売るか話し合う者もあれば、彼の衣に手を伸ばし、どれほどの値がつくか品定めする者もあった。
少年は、それでも抵抗しなかった。
船が沖へ出たころ、最初の不思議が起こった。
甲板の板の隙間から、ふいに液体がにじみ出した。はじめはわずかだったが、すぐに量を増していく。海賊たちが身をかがめて匂いをかぐと、それは濃く甘い酒の香りだった。酒壺からこぼれたものではなく、船倉から漏れたものでもない。まるで泉のように木の板の中から湧き出し、櫂座を伝い、縄を濡らし、船べりへゆっくり広がっていった。
誰かが叫び、誰かが手を伸ばして触れた。酒は彼らの足を濡らし、香りはいよいよ強くなった。船全体が、熟した葡萄の匂いに浸されているようだった。
つづいて、帆柱のそばから青々とした枝が芽吹いた。細い蔓が木の割れ目からするりと伸び、たちまち上へ這いのぼった。帆柱に巻きつき、横木をからめ取り、やがて重そうな葡萄の房をいくつも垂らした。蔦も船べりから這い上がり、葉を幾重にも重ねながら、白い帆と縄をびっしり覆っていった。
櫂を動かそうとした男たちは、櫂が海に噛みつかれたように動かないことに気づいた。帆は風を受けてふくらんでいる。それなのに船は海の上でぴたりと止まり、足もとを巨大な手につかまれているかのようだった。
そのときになって、海賊たちはようやく恐れを覚えた。
舵取りがまた叫んだ。
「だから言ったのだ。あの方を解き放て。早く許しを乞え」
だが、もう遅かった。
少年が船首から立ち上がった。
海風が彼の衣をひるがえし、酒の香りと蔓の葉が彼のまわりを包んだ。海賊たちの目には、その顔つきが変わって見えた。もはや美しい少年であるだけではない。そこには神だけが持つ威厳があった。目の奥には火が燃えているようで、髪には葡萄の葉と蔦の影が揺らいでいるようだった。
その直後、船の上に低いうなり声が響いた。
一頭の獅子が船首に現れた。たてがみを逆立て、爪を木の板に食い込ませ、海賊たちをにらみ据えている。さらに船の中央には熊の影が揺れた。重々しい体が、酒に濡れた甲板を押し分けるように進んでくる。海賊たちは船尾へ逃げ、互いに押し合い、もはや誰もほかの者を気遣う余裕はなかった。
いちばん荒々しかった船長も、このときばかりは顔を青ざめさせた。剣を抜こうとしたが、指が震えて柄をつかめない。ひざまずく者がいた。泣き叫ぶ者がいた。船倉へ逃げ込もうとする者もいた。だが、蔓はすでに船中の道をふさいでいた。
ディオニュソスは彼らを見つめていた。
声高に呪う必要も、雷を掲げる必要もなかった。船に満ちた酒、絡みつく蔓、現れた野獣、そして海上で止まった船。それだけで、貪欲な男たちは思い知ったのである。自分たちがさらったのは裕福な家の少年などではなく、神だったのだと。
恐怖は火のように船中へ燃え広がった。ひとりの海賊が耐えきれず、船べりを越えて海へ飛び込んだ。別の者も続いた。やがてさらに多くの男たちが、次々と波の中へ身を投げた。深い海に向かうほうが、あの神の前に立ちつづけるよりましだと思ったのである。
しかし、彼らが水に落ちた瞬間、体は変わりはじめた。
脚はひとつに合わさり、腕は短くなってひれとなった。皮膚はなめらかに変わり、背は弓のように曲がり、口と鼻は前へ突き出した。つい先ほどまで叫び、罵っていた男たちは、波間で甲高い声をあげ、みるみるうちにイルカの群れとなった。
イルカたちは船のまわりを泳ぎ回った。水面へ跳ね上がるものもあれば、青黒い海の底へ沈むものもあった。彼らの中には、まだ人間だったころの驚きが少し残っているようだった。なぜ突然、海に奪われたのか分からないままに見えた。波はその背を打ち、船べりに漂っていた酒の香りを洗い流していった。
ただひとり、舵取りだけは海へ飛び込まなかった。彼は甲板にひざまずき、頭を垂れて、ディオニュソスを見ることもできずにいた。
ディオニュソスは彼の前へ歩み寄り、言った。
「恐れるな。おまえは神に気づき、彼らに私を放すよう勧めた。おまえはあの者たちとは違う」
舵取りはようやく顔を上げたが、なお全身を震わせていた。
ディオニュソスは、自分がゼウスとセメレの子であり、葡萄と酒と歓喜をもたらす神であることを告げた。そして舵取りの命を守り、この船を神のしるしから解き放った。蔓はゆっくりほどけ、酒の香りはしだいに薄れ、海風はふたたび帆を動かした。
のちに人々は、海でイルカが船を追うのを見るたび、あの海賊たちのことを思い出した。彼らは神を荷物のように売り払おうとした。だが最後には、永遠に波の中へ留められ、船影と白い波を追って泳ぎつづけるものとなったのである。