
ギリシア神話
エウリュステウスはヘラクレスに、世界の西の果てへ行き、三つの身体をもつ巨人ゲリュオンの赤い牛群を連れ帰るよう命じた。ヘラクレスはリビュアと海を越え、ヘリオスの黄金の杯を借りて大洋を渡り、番犬と牧人とゲリュオンを討ち、ついに牛群をミュケナイへ追い戻した。
ヘラクレスがヒッポリュテの帯を持ち帰ると、エウリュステウスはさらに遠く、さらに危険な仕事を思いついた。大洋のほとりにあるエリュテイア島へ行き、ゲリュオンの牛群を連れて来いというのである。ゲリュオンは三つの身体をもつ怪物で、その赤い牛たちは双頭の犬オルトロスと牧人エウリュティオンに守られており、普通の人間なら近づくことさえできなかった。 ヘラクレスは多くの土地を越えて西へ進み、熱く荒れたリビュアへ着いた。そこでは巨人アンタイオスが旅人に格闘を挑み、足が大地に触れるたびに力を取り戻していた。秘密を見抜いたヘラクレスは、もう地面へ投げ倒そうとはせず、巨人を抱え上げて大地から引き離し、そのまま締め殺した。さらに西へ進むと、海の狭まる場所に達し、後にヘラクレスの柱と呼ばれる境界を立てた。 それでも牛群はまだ大洋の向こうにあった。普通の船では渡れず、太陽の熱も彼を苦しめた。怒ったヘラクレスは、太陽神ヘリオスに向かって弓を引く。ヘリオスは罰を下さず、その大胆さに驚き、夜ごと大洋を渡る黄金の杯を貸した。ヘラクレスはその不思議な器でエリュテイア島へ渡り、双頭の番犬オルトロスを打ち倒し、牧人エウリュティオンも退けて、赤い牛たちを海辺へ集めた。 やがて本当の主であるゲリュオンが追って来た。三つの身体をもつ彼は武具をまとい、まるで三人の戦士が一体になったように迫る。ヘラクレスは接近戦に持ち込ませず、弓を引いてヒュドラの毒血を帯びた矢を放った。矢を受けたゲリュオンはよろめき、三つの身体が支え合えなくなって倒れた。島に妨げる者がいなくなると、ヘラクレスは牛群を率いて再びヘリオスの杯で大洋を渡った。 帰り道もまた一つの苦役だった。牛は驚けば散り、道中では神の牛を奪おうとする者も現れる。さらにヘラは虻を送り、赤い牛群を四方へ逃げ散らせた。ヘラクレスは山や川や入り江を越え、夜には群れを見張り、奪おうとする者を退け、失われた牛を一頭ずつ集め直した。ついに彼が牛群をミュケナイへ連れ帰ると、エウリュステウスは仕事の成就を認めるしかなく、その牛たちはヘラに捧げられた。
ヘラクレスはヒッポリュテの帯をミュケナイへ持ち帰り、エウリュステウスの前に差し出した。王は彼がまた生きて戻ったのを見ても、少しも喜ばなかった。休む暇を与えるどころか、まもなく新しい命令を下した。はるかな西の果てへ行き、ゲリュオンの牛群を連れ帰れ、というのである。
それはただの牛群ではなかった。ゲリュオンは大洋に囲まれたエリュテイア島に住んでいた。そこは世界の果てに近く、日が沈むころには、海面が銅の火に焼かれたように赤く染まる場所だった。ゲリュオン自身も、ただの巨人ではない。三つの身体、三つの頭、六本の腕をもち、立ち上がれば動く塔のように見えたという。彼の牛たちは赤くつややかな毛並みをもち、島の草地に群れていた。それを見張っていたのが、双頭の犬オルトロスと牧人エウリュティオンであった。
エウリュステウスがヘラクレスをそこへ向かわせたのは、本当に牛を連れ帰れると思ってのことではなかった。道はあまりに遠く、海は危険で、島には恐ろしい巨人がいる。ヘラクレスも今度こそ、どこかで命を落とすに違いないと王は考えたのである。
命令を聞き終えても、ヘラクレスは多くを語らなかった。獅子の皮を肩にまとい、弓矢と重い棍棒を手に取ると、ミュケナイをあとにして西へ歩き出した。
ヘラクレスはいくつもの土地を越え、リビュアへたどり着いた。そこには荒れた岩、熱い風、果てしなく広がる砂地があった。昼には太陽が頭上から押しつけるように照りつけ、地面はまぶしく光った。夜になると、砂丘のあいだから風が吹き、遠くで獣が息をしているような音を立てた。
その地には、旅人を襲う巨人アンタイオスがいた。アンタイオスは大地の子で、足が土に触れているかぎり、力が何度でもよみがえった。彼は通りかかる者に無理やり相撲を挑み、投げ殺しては、奪った品を誇らしげに残していた。
ヘラクレスが出会ったときも、アンタイオスはいつものように太い腕を広げ、戦いを迫った。二人は組み合い、足もとの砂は深くえぐれた。ヘラクレスは何度も巨人を地面に叩きつけたが、アンタイオスは大地に触れるたびに起き上がり、肩も背も前より力に満ちていった。やがてヘラクレスは、その秘密を見抜いた。
彼はもう巨人を地面へ投げなかった。かわりに、アンタイオスの腰をがっしり抱え、力まかせに持ち上げた。巨人の両足は宙に浮いた。アンタイオスは母なる大地を踏みしめようともがいたが、ヘラクレスの腕は鉄の輪のように締まって離れない。巨人の力は少しずつ抜けていき、ついには空中で息絶えた。
ヘラクレスはさらに西へ進んだ。海岸と荒野を越え、道中で人を害する獣たちを退けた。やがて彼は、海が狭くくびれた場所に着いた。片側にはエウロペの岩の岸、もう片側にはリビュアの山地があった。伝えによれば、彼はそこで二本の石柱を立て、自分が到達した西の果てを示したという。後の人々はそれを、ヘラクレスの柱と呼んだ。
しかし、世界の西の果てに着いても、ヘラクレスはまだエリュテイア島へは届いていなかった。牛群は大洋の向こうにあり、普通の船では渡ることが難しかった。さらに耐えがたかったのは太陽である。天からまっすぐに焼きつけ、岩を白く照らし、海面を目も開けられないほどぎらつかせていた。
烈日にさらされたヘラクレスは、胸の内に怒りを燃やした。彼は空の太陽を見上げると、なんと弓を引きしぼり、ヘリオスに向けて矢を放とうとした。
ヘリオスは、この人間が暑さのただ中で自分に弓を向けたのを見た。しかし罰を下すかわりに、その胆力に驚いた。ヘリオスは毎日、戦車に乗って天空を渡り、夜になると巨大な黄金の杯で大洋を越えて東へ帰る。そこで彼は、その黄金の杯をヘラクレスに貸し与え、海を渡らせることにした。
ヘラクレスは弓矢を収め、杯の中に乗り込んだ。その杯は黄金の小舟のように、濃い青の大洋に浮かんだ。波は杯の縁のそばをうねり、遠くでは空と水がひとつに溶け合っていた。ヘラクレスは武器を手にしたまま、黄金の杯に運ばれてエリュテイア島へ向かった。
やがてエリュテイア島が海上に姿を現した。島には草地があり、岩があり、海風に曲げられた木々が立っていた。赤い牛群は草を食み、角は陽光に光り、背には暗い銅色を塗ったようなつやがあった。
ヘラクレスが島に足を踏み入れると、牛を守る双頭の犬オルトロスが、見知らぬ者のにおいを嗅ぎつけた。犬は牛群のそばから飛び出し、二つの頭で同時に口を開いた。鋭い牙がのぞき、吠え声は二匹の猛獣が一斉にうなるように重なった。
ヘラクレスは退かなかった。棍棒を振り上げ、悪犬が飛びかかってくるのを待ち、一撃を叩き込んだ。オルトロスは地面に倒れ、二つの頭はどちらも動かなくなった。
牧人エウリュティオンは犬の吠え声が途切れたのを聞き、すぐに駆けつけた。手には武器を持ち、主人の牛を守ろうとしていた。だがヘラクレスは彼に長く手間をかけるつもりはなかった。身をひるがえして迎え撃つと、牧人が彼を追い払う前に、草地の上へ打ち倒した。
島は急に静まり返った。聞こえるのは、驚いた牛たちの荒い息だけだった。ヘラクレスは赤い牛を一か所へ集め、海辺へ追いはじめた。だが本当の主人がまもなく現れることを、彼は知っていた。
知らせは、やはりゲリュオンのもとへ届いた。彼は鎧を身にまとい、三つの身体をいっせいに動かし、武器を手にしてヘラクレスを追ってきた。遠くから見ると、三人の戦士が肩を並べて一つになったようで、その重い足どりは大地を鳴らした。
ヘラクレスは川辺、あるいは海岸に近い場所で立ち止まり、振り返って敵を迎えた。ゲリュオンの六本の腕が同時に動き、槍と盾が太陽の下で光った。三つの頭はそろってヘラクレスをにらみ、まるで三方から押し包もうとしているかのようだった。
それでもヘラクレスはうろたえなかった。彼は弓を引き、毒矢を弦に番えた。その矢は、かつてヒュドラの毒血に浸されたもので、死をもたらす冷たさを帯びていた。弦が鳴り、矢は空を裂いてゲリュオンを射抜いた。巨人の巨大な身体はぐらりと揺れ、三つの身体はもはや互いを支えきれず、ついに地面へ倒れ伏した。
ゲリュオンが死ぬと、エリュテイア島でヘラクレスを止められる者はいなくなった。彼は赤い牛群を海辺へ追い、ふたたびヘリオスの黄金の杯に乗って大洋を渡った。海風は波を押し、狭いところで牛たちは身を寄せ合って落ち着かなかった。ヘラクレスは声を張り上げ、棍棒と縄で牛を制しながら、ようやく大陸へ連れ戻した。
牛群を奪ったからといって、仕事が終わったわけではなかった。ヘラクレスはなお、それをエウリュステウスのもとまで追って帰らなければならない。牛は戦利品のように肩に担いで運べるものではない。驚けば散り、見知らぬ土地では勝手な方向へ走ってしまう。彼は山地を越え、川を渡り、入り江を回り、昼は道を進み、夜は牛群を見張った。野獣を近づけず、盗人に奪われぬよう守らなければならなかった。
行く先々で、遠い地から来た神々しい牛を連れていると聞きつけ、それを奪おうとする者も現れた。ヘラクレスはそのたびに彼らを退けた。道のりは長く、牛のひづめは土ぼこりを踏み、浅瀬を踏み、冷たい山道をも踏んでいった。
そのうえ、ヘラがまた災いを加えた。彼女は牛虻を送り、牛群を刺させたのである。痛みに狂った赤い牛たちは、突然四方へ散った。ある牛は谷へ駆け込み、ある牛は川沿いに走り、またある牛は見知らぬ平野へ逃げていった。ヘラクレスはそれらを追い、失われた牛を一頭ずつ探し集めねばならなかった。烈日の下では全身が土ぼこりにまみれ、夜の闇の中では牛鈴とひづめの音を頼りに方向を見分けた。
またあるとき、彼は川辺で行く手を阻まれた。牛を連れて渡ることを許さない者たちがいたのである。ヘラクレスは力で道を開き、牛を追ってさらに進んだ。そうして長い時をかけ、ついにギリシアへ戻り、ミュケナイへ向かった。
エウリュステウスは、今度こそヘラクレスは帰ってこないと思っていた。ところが、町の門の外からまた牛の鳴き声が聞こえてきた。赤い牛が一頭、また一頭と追い込まれ、足もとから土ぼこりが舞い上がった。ヘラクレスは牛群のそばに立ち、獅子の皮をまとい、手にはなお棍棒を握っていた。
王は彼を見て、任務が果たされたことを認めるほかなかった。世界の西の果てから連れてこられたその牛群は、最後にヘラへ捧げられた。
ヘラクレスがこの仕事のために、安らかな報いを得ることはなかった。彼にとっては、また一つの苦役が終わったにすぎない。それでも後の人々は、彼が西の果てへ到達し、ヘリオスの黄金の杯を借りて海を渡り、三つの身体をもつ巨人ゲリュオンを討った話を語るたび、大洋のほとりからギリシアまで追われてきた赤い牛群のことを思い出すのである。