
ギリシア神話
フェニキアの王子カドモスは、ゼウスにさらわれた妹エウロペを探すよう父に命じられるが、手がかりは見つからない。やがてデルポイのアポロの神託に導かれ、一頭の牝牛のあとを追って見知らぬ地へ入り、毒竜を倒し、その牙を土に播いて、のちに名高いテーバイを築く。
フェニキアの王子カドモスは、ゼウスに連れ去られた妹エウロペを探すよう、父アゲノールに命じられて故郷を出た。海岸や内陸の道を歩き、旅人、牧人、城門の老人たちに尋ねたが、確かな手がかりは得られなかった。妹を取り戻すことも、手ぶらで帰ることもできず、彼はアポロンの神託を求めてデルポイへ向かった。 神託はエウロペの居場所を教えず、探すのをやめ、まだ軛をつけられたことのない牝牛について行けと命じた。カドモスはそれに従い、牝牛のあとを山すそ、草地、浅瀬へと追っていく。やがて牝牛がボイオティアの開けた土地に横たわると、彼はそこが神に示された場所だと悟り、犠牲を捧げて町を築く準備をした。 犠牲には清い水が必要だったため、カドモスは近くの泉へ従者たちをやった。だが彼らは戻らない。あとを追ったカドモスは、倒れた水器、死んだ従者たち、そして泉のそばにとぐろを巻くアレスの竜を見つけた。悲しみと怒りに駆られた彼は、石、槍、剣を用いて怪物と戦い、ついにこれを殺した。 そこへアテナが現れ、竜の牙を抜いて土に播けと命じた。土は裂け、武装した男たちが地下から生まれ、すぐにカドモスへ向かってきた。女神の助言に従い、彼は石を彼らの中に投げ込む。男たちは互いを疑って殺し合い、最後に五人だけが残った。生き残った者たちは武器を置き、カドモスと和解した。 この五人の「スパルトイ」は、のちにテーバイとなる町の城壁を築くのを助けた。しかしカドモスはアレスの竜を殺したため、罪を償うために戦神へ仕えなければならなかった。その務めが終わると、彼はハルモニアを妻に迎え、神々も婚礼に訪れた。テーバイはエウロペ探索の失敗から生まれたが、その始まりから神意、竜の血、そして未来の家族悲劇の影を帯びていた。
フェニキアの海辺には、豊かな都があり、そこをアゲノール王が治めていた。王には幾人もの息子と、エウロペという美しい娘がいた。エウロペは若く、あでやかで、いつも仲間たちと海辺で花を摘み、戯れていた。するとゼウスが彼女に目を留め、従順で見事な牡牛の姿となって海岸へ現れ、娘をその背に乗せて海を渡り、はるかな地へ連れ去ってしまった。
この知らせが宮殿に届くと、アゲノールは雷に打たれたように打ちのめされた。彼は息子たちを呼び集め、すぐに妹を捜しに出るよう命じた。そして、エウロペを見つけ出せぬまま戻ることは許さぬと、重い言葉を投げつけた。
カドモスも、その息子たちの一人だった。彼は従者を連れて故郷を出ると、海沿いから内陸へ、あらゆる土地を歩き回って妹の行方を探した。ある港では、不思議な白い牛を見た者がいると言い、ある者は海に少女の泣き声が聞こえたと言った。だが誰も確かなことは知らず、首を振るばかりだった。カドモスは牧人にも、船主にも、商人にも、城門に立つ老人にも尋ねたが、エウロペの足取りは、まるで大海に呑まれたように跡形もなかった。
日が積もり、従者たちは疲れ果て、旅の費えも尽きた。カドモスは、妹を見つけられぬまま父の前へ戻ることもできないと悟った。もはややみくもに歩き続ける気にはなれず、彼はギリシア中部へ向かい、デルポイでアポロの神託を仰ぐことにした。
デルポイの岩山は高くそびえ、冷えた泉が石の割れ目から流れ出ていた。カドモスは神殿に入り、供え物を捧げると、神に問いかけた。エウロペはどこにいるのか。自分はどこへ行けばよいのか。
だが神託が告げたのは、妹の行方ではなかった。アポロは、もうエウロペを捜すのはやめよ、と言った。そして神殿を出た先で、まだ轭をつけられたことも、犂を引かされたこともない一頭の牝牛に出会うだろう、その牛のあとを追え、追い立てても邪魔してもならない、そして牛が疲れて伏した場所に城を築けと命じた。
カドモスはその言葉を聞いて、驚きと重さを胸に抱いた。もともとは妹を探しに来たのに、神は別の道を示したのだ。それでも、ほかに選べる道はない。彼は神託に従うことにした。
神殿を出ると、果たして道の先に一頭の牝牛が見えた。首には縄の痕もなく、毛並みは清らかで、足取りも落ち着いている。カドモスは近づきすぎぬようにしながら、人々を連れて遠くからあとを追った。牝牛は草原を抜け、丘を下り、浅瀬を渡り、肥えた平野を進んだ。太陽が高く昇っても、やがて西へ傾いても、牛はゆっくりと歩みを止めず、自分の行き先を知っているかのようだった。
やがて牝牛はボイオティアの地に入り、ひらけた場所で足を止めた。青草を嗅ぐと、四つ足を折って静かに地に伏した。
カドモスはあたりを見渡した。平野があり、泉があり、城を築くにふさわしい高台もある。神託は成ったのだ。彼はここで供犠を行い、アポロに感謝し、この土地に自らを受け入れてもらおうと決めた。
供犠には清水が要る。カドモスは従者を近くの泉へ水を汲みにやった。だが彼らは銅の壺や水袋を手に出ていったきり、いつまでも戻ってこなかった。
はじめ、カドモスは泉のそばで休んでいるのだろうと思った。だがしばらく待っても、森の方からは足音ひとつ、声ひとつ聞こえない。胸騒ぎを覚えた彼は、長槍と剣を手に取り、従者たちが向かった方へ歩き出した。
泉は木々の影に隠れるようにあり、土は湿り、葉には水滴が光っていた。カドモスが近づくと、銅の壺は地面に転がり、水があたりへこぼれ、数人の従者が泉のほとりに倒れているのが見えた。衣には血がにじみ、動く者はいない。
そこには巨大な毒竜がとぐろを巻いていた。うろこは濡れた石に貼りつくように光り、背は高く弓なりに盛り上がり、蛇のような胴は泉口のまわりを何重にも取り巻いている。目には暗い火が宿り、口を開けば鋭い牙がのぞき、毒気が吐き出されて草の葉までもが焼けたように縮れていった。
カドモスは怒りと悲しみで胸を焼かれた。彼は地面から大きな石を拾い上げ、竜めがけて投げつけた。石は鱗にぶつかって重い音を立てたが、竜を倒すには至らない。毒竜はたちまち跳びかかり、尾で木々をなぎ倒し、口を開けて彼に噛みつこうとした。カドモスは身をかわし、槍を突き出した。槍先はうろこの隙間に食い込み、竜は激痛にのたうって泉の水を濁らせた。
竜は槍に身を巻きつけ、武器をへし折ろうとした。だがカドモスは退かなかった。剣を抜き、竜が頭をもたげた一瞬を逃さず、喉元深く突き立てた。竜はしばらくもがき、石を砕き、枝をへし折った末、ついに泉辺へ崩れ落ちた。黒い血が泥の上を流れ、草むらへ染みこんでいく。あたりには、重苦しい息づかいだけが残った。
カドモスは死んだ竜の前に立ち尽くした。衣も身体も泥と血で汚れている。城を築く前から、彼はすでにこの土地で代償を払っていた。
そのとき、アテナが彼の前に現れた。女神の姿には騒ぎ立てるところがなく、林のあいだに澄んだ光が落ちたかのようだった。彼女は、あの竜はアレスのものだから、むやみに死骸を捨ててはならないと言い、さらに毒竜の牙を抜き取って土に播くよう命じた。
カドモスは神の言葉に逆らうわけにはいかなかった。彼はしゃがみこみ、竜の口から一本一本、鋭い牙を抜いた。牙は石のように冷たく硬く、毒血がこびりついていた。彼は地面に浅い溝をいくつも掘り、そこへ牙をまき、土をかぶせた。
すると、土がすぐにざわめき始めた。
最初は細いひびが走り、やがて地中から何かが押し上げられるようになった。カドモスは剣を握りしめ、数歩あとずさる。すると、土の中から腕が伸び、盾と槍をつかんだ。次いで兜が現れ、胸当てが、肩が、やがて全身が姿をあらわす。たちまち畑には、甲冑をまとった武士たちがずらりと立ち上がった。彼らはまだ赤子でも少年でもない。地面から生まれたその瞬間にはすでに大人の姿で、顔つきは険しく、手には青銅の武器を握っていた。
武士たちはカドモスを見ると、すぐさま槍を掲げ、敵と見なして襲いかかろうとした。だが、ひとりで彼らを相手にすることはできない。カドモスがそう悟ったとき、アテナの知恵が彼にひらめいた。彼は石を一つ拾い、武士たちのあいだへ思いきり投げ込んだ。
石が地面を打つ。すると武士たちは、たがいに「誰が俺を打った」「誰が先に手を出した」と叫び始めた。地中から生まれたばかりの彼らは、血の気と殺意に満ちていて、確かめるより先に刃を向けた。隣の者へ槍を突き立てる者がいれば、その相手は盾で受け返す。槍は胸当てにぶつかり、剣は兜を打ち、さっきまで同じ土から立ち上がった者たちが、たちまち互いを斬り合った。
カドモスは手を出さず、ただその様子を見守った。叫び声、武器のぶつかる音、倒れる音が、広場いっぱいに響きわたる。やがて土埃が静まると、地面には甲冑の死骸が散らばり、立っている者は五人だけになっていた。彼らはようやく争いをやめ、互いの血まみれの姿を見、そしてカドモスが自分たちを襲っていないことに気づいた。
その五人は武器を下ろし、カドモスと和解することを選んだ。のちに彼らは「蒔かれた者たち」と呼ばれる。竜の牙から生まれた彼らは、カドモス最初の仲間であり助け手となり、やがてテーバイの有力な家々の祖先ともなった。
カドモスは神託を忘れなかった。牝牛が伏した場所を新しい都の中心と定め、地形を見て高台には城塞を築いた。地中から生まれた五人の武士は、彼を助けて石を運び、土地を測り、門を立てた。荒れた草は刈り払われ、石は幾重にも積まれ、門のそばには柱が立ち、祭壇も据えられた。
この町は、のちにテーバイと呼ばれるようになった。城の高台は、カドモスの名で呼ばれることも多い。カドモスは、妹を探してさすらう王子から、新しい都を築く者へと変わったのだった。
だが、毒竜の死はそれで終わりではなかった。あの竜はアレスに属する聖なるものだったため、カドモスは戦神に対して罪を負った。伝えによれば、彼は長いあいだアレスに仕え、しもべのように神罰を受けたという。贖いの時が尽きてようやく、彼はこの地に安らぎを得た。
その後、カドモスはハルモニアを妻に迎えた。彼女はアレスとアフロディテの娘である。婚礼は新しい都で執り行われ、神々までもが宴に集い、贈り物を携えてやって来た。その日は、テーバイの家々に歌が響き、火がともり、杯が満ち、新しい王と王妃の栄誉が輝いた。
カドモスは、もう海辺をさまよって渺たる消息を追うことはなかった。エウロペを取り戻すことはできなかったが、神託に導かれて一つの都を残したのである。城壁はボイオティアの大地に立ち、龍の牙から生まれた子孫がその中に住んだ。のちのテーバイには、英雄も、王家も、予言も、戦いも訪れる。だが、その最初の物語は、妹を失った王子と、一頭の伏した牝牛と、一つの泉と、土へ播かれた龍の牙から始まったのだった。