
ギリシア神話
ペルセポネーは花咲く野で花を摘んでいる最中、冥王ハーデースにさらわれる。母デーメーテールは娘を求めて各地をさまよい、深い悲しみのために大地は実りを失った。ついにゼウスが調停に乗り出すが、ペルセポネーは冥府でザクロの粒を口にしていたため、一年のうちある期間は冥府へ戻り、またある期間は母のもとへ帰ることになった。
ペルセポネーは仲間たちと花を摘んでいるとき、大地から咲いた不思議なスイセンを見つけた。手を伸ばした瞬間、地面が裂け、冥王ハーデースが戦車で現れて彼女を暗い冥府へ連れ去った。その叫びを聞いたのはヘカテーであり、出来事を見ていたのは空を行くヘーリオスだった。 デーメーテールは娘の声を聞くと、黒い衣をまとい、松明を掲げて九日九夜、大地を探しまわった。十日目、ヘカテーに導かれてヘーリオスを訪ね、さらったのがハーデースであり、ゼウスもその婚姻を許していたのだと知る。 悲しみと怒りに沈んだデーメーテールはオリュンポスを離れ、エレウシースへ行き、大地に実りを与えることをやめた。畑は芽を出さず、祭壇の煙も絶えかけ、人間も神々も飢えに追い詰められたため、ゼウスはヘルメースを冥府へ遣わした。 ハーデースはペルセポネーを返すことに同意したが、彼女にザクロの粒を食べさせ、冥府との結びつきを残した。こうしてペルセポネーは一年の一部を母のもとで過ごし、一部を冥府で過ごすことになり、帰還の季節には花と穀物が育ち、別れの季節にはデーメーテールの悲しみが野に戻るようになった。
デーメーテールには、ペルセポネーという娘がいた。若く明るい乙女で、海の神々の娘たちとともに、よく草原で遊んでいた。ある日、やわらかな花野に陽が降りそそぎ、少女たちは身をかがめて花を摘んでいた。手にはバラ、サフラン、スミレ、アイリスが抱えられ、笑いながら花を胸元に挿していた。だれひとり、地の底で長く待ち受けている者がいるとは知らなかった。
冥王ハーデースは、日の差さない国に住んでいた。そこには暗い川が流れ、死者の魂が通る道があり、固い青銅の門が閉ざされている。ハーデースはペルセポネーを見初め、冥府へ連れて行って自分の妻にしたいと望んだ。ゼウスはそのことを知り、この婚姻を黙って許した。けれども、その話をデーメーテールに告げることはなく、まして花野で遊ぶペルセポネーには何も知らせなかった。
乙女を仲間から引き離すため、大地には一輪の不思議なスイセンが咲いた。香りは遠くまで漂い、花びらは明るく輝いて、土の中から灯火が差し出されたように見えた。ペルセポネーはそれを見つけ、足を止めた。仲間たちはまだ別の場所で花を摘んでいる。彼女はひとりで歩み寄り、その花を折ろうと手を伸ばした。
指先が茎に触れた、その瞬間だった。大地が突然裂けた。割れ目の奥から馬蹄と車輪の音が鳴りひびき、ハーデースが黄金の戦車を駆って地下から現れた。黒い馬はたてがみを振り乱し、車輪は土をはね飛ばした。冥王はペルセポネーをつかみ、戦車の上へ抱え上げた。
ペルセポネーは悲鳴をあげた。父ゼウスを呼び、母デーメーテールを呼んだ。手にしていた花束は散り、色とりどりの花びらが土埃の上に落ちた。戦車はすでに向きを変え、裂けた地底へ向かって疾走していた。大地はふたたび閉じ、花野には静けさが戻った。まるで何事も起こらなかったかのようだった。
しかし、その叫びは完全には消えなかった。女神ヘカテーは洞窟の中で声を聞いたが、だれが乙女を連れ去ったのかまでは見ていなかった。高い空を進むヘーリオスは、すべてを見ていた。太陽の目は、大地の上の出来事をくまなく照らしていたからである。
娘の叫びを聞いたとき、デーメーテールの胸は刃で裂かれたように痛んだ。彼女はすぐに神々の住まいを飛び出し、頭の飾りを解き、黒い衣をまとった。そして手に松明を掲げ、ペルセポネーを探して大地を歩きまわった。
デーメーテールは神々の食物を口にせず、甘い酒も飲まなかった。昼には山を越え、川辺をたどり、町々の道を行き、夜になっても松明を掲げたまま捜しつづけた。火の光は彼女の顔を照らし、荒れ野の石や土埃を照らした。出会う神々に尋ね、川に尋ね、谷に尋ねた。けれども、娘がどこへ行ったのかを告げられる者はいなかった。
九日九夜が過ぎた。十日目、ヘカテーがデーメーテールの前に現れた。彼女もまた手に松明を持っていた。ヘカテーはデーメーテールに言った。
「あなたの娘の叫びは聞きました。けれども、だれが連れ去ったのかは見ていません。」
二柱の女神は、ともにヘーリオスを訪ねた。ヘーリオスは毎日、東から西へと車を走らせ、人間のことも神々のことも数多く見ている。デーメーテールは彼の前に立ち、せきこむように尋ねた。
「わたしの娘を奪ったのは、だれなのですか。」
ヘーリオスは隠さなかった。ペルセポネーをさらったのはハーデースであり、ゼウスもそれを知っていたのだと告げた。ハーデースは暗い冥府を治めているとはいえ、ゼウスの兄弟であり、神々のあいだで尊い地位を持つ者でもある。だが、そんな言葉はデーメーテールの慰めにはならなかった。ゼウスが黙って許していたと知ると、彼女の悲しみは怒りへ変わった。デーメーテールはオリュンポスを去り、もはや神々と同じ席に着こうとせず、大地を以前のように実らせることもしなかった。
デーメーテールは年老いた女の姿に変わり、神々の道を離れてエレウシースへやって来た。彼女は井戸のそばに腰を下ろした。遠い道を歩いて疲れ果てた老人のように見えた。町の若い娘たちが水を汲みに来て、ひとり座っている彼女を見つけると、どこから来たのか、なぜここにいるのかと尋ねた。
デーメーテールは自分の神名を明かさなかった。ただ、不幸に遭い、故郷を離れざるを得なかったのだと語った。娘たちは彼女に同情し、王宮へ連れて行った。エレウシースの王妃メタネイラは、幼い息子デーモポーンの世話をする者を必要としていたため、この見知らぬ老女を受け入れた。
宮殿に入ったデーメーテールは、黙って座っていた。酒を差し出されても飲もうとしなかった。やがて侍女が大麦と水を混ぜ、ハッカを加えた飲み物を作ると、彼女はそれを受け取った。王宮で幼子の世話をするうち、その子は日ごとにたくましく育っていった。まるで神がひそかに触れているかのようだった。
デーメーテールはその子を愛し、老いと死から免れさせてやりたいと思った。昼には聖なる膏油を塗り、夜になると人々が眠ったのを見計らい、子どもを火の中に置いた。湿った薪を少しずつ乾かすように、彼の身にある死すべきものを焼き払おうとしたのである。子どもは傷つくどころか、いっそう神に似た姿になっていった。
ところが、ある夜、メタネイラが目を覚まし、息子が火の光の中にいるのを見て叫び声をあげた。彼女は、この老女が子どもを殺そうとしていると思い、駆け寄った。その悲鳴はデーメーテールの心を深く刺した。女神は子どもを火から取り上げ、地面に置き、もはや自分の姿を隠さなかった。
女神の輝きが宮殿を満たした。彼女はもう老女ではなかった。髪は明るく輝き、身からは芳しい香りが立ちのぼり、戸口も梁も神々しい光に照らされた。デーメーテールはエレウシースの人々に、子どもを不死にする機会を逃したのだと告げた。それでもなお、彼女は自分のために神殿と祭壇を建てるよう命じた。人々は逆らうことなどできず、急いでその命令に従った。
神殿が完成すると、デーメーテールはひとりそこに座った。彼女はなおペルセポネーを恋しがり、オリュンポスへ戻ろうとしなかった。悲しみを大地にのしかからせたため、野には芽が出なくなり、土に埋められた種も死んだように眠った。牛が犂を引いて畝を進み、土は掘り返されたが、青い苗は姿を見せなかった。人々が神々に捧げる煙は少なくなり、穀倉はしだいに空になった。飢えが町にも村にも近づいていった。
神々はついに不安を覚えた。人間の世界に穀物がなくなれば、人間は死に絶え、祭壇も冷え、神々へ捧げられる香煙もますます少なくなる。ゼウスはまずイーリスを遣わして、デーメーテールに神々のもとへ戻るよう説かせた。さらに他の神々も送り、贈り物ややさしい言葉を差し向けた。けれどもデーメーテールは神殿に座ったまま、心を変えようとしなかった。
彼女が望むものは、ただひとつだった。
娘に会うこと。
ゼウスはもはや引き延ばすことができず、ヘルメースを冥府へ遣わした。ヘルメースは翼のある履物を身につけ、神杖を手に取り、暗い道をたどって地下へ降りていった。ステュクス川を越え、ハーデースの宮殿へ入ると、ペルセポネーが冥王のそばに座っているのが見えた。彼女はすでに冥府の王妃となっていたが、心はなお母と、陽光の下の花野を思っていた。
ヘルメースはゼウスの命令を伝えた。ペルセポネーはデーメーテールのもとへ戻らねばならない。そうして大地にふたたび実りをもたらさねばならない、と。
ハーデースはそれを聞いて怒らなかった。ペルセポネーを去らせることに同意した。ただし、出発の前に彼女へザクロの粒を差し出した。ザクロは固まった血のように赤く、粒は薄い膜の内に包まれて、透きとおるように甘かった。ペルセポネーはそのうち数粒を食べた。小さな行為に見えたが、それによって彼女は冥府と結びつけられた。地下の食物を口にした者は、永遠に地下を離れることはできないのである。
ハーデースは馬と戦車を整えさせ、ヘルメースはペルセポネーを連れて冥府を出た。戦車は暗い門を越え、死者の魂が集まる場所を離れ、風と陽光のある大地へふたたび戻っていった。
デーメーテールは遠くに娘の姿を見つけると、すぐに駆け出した。ペルセポネーも戦車から飛び降り、母の胸へ飛び込んだ。母と娘は抱き合い、長いあいだ泣いた。デーメーテールは娘の顔と髪に触れ、本当に帰ってきたのだと確かめるようだった。そして、地下で何か食べたかと尋ねた。
ペルセポネーはありのままを語った。ハーデースがザクロの粒をくれ、それを食べてしまったのだと。デーメーテールはそれを聞き、胸の底がまた沈むのを感じた。娘が永遠に自分のそばにいられないことを意味していたからである。
そこでゼウスの取り決めが定められた。ペルセポネーは一年のうちある期間、冥府へ戻り、ハーデースのそばに座って地下の王妃となる。残りの期間は、母のもとへ帰ることが許される。こうしてハーデースは妻を完全に失わず、デーメーテールも娘を永遠に失わずにすむことになった。
デーメーテールの胸にはなお痛みが残っていた。それでも彼女は、ついに大地を目覚めさせた。畑には緑の芽が出て、木々の枝には若葉がふくらみ、麦の穂は風の中で頭を垂れた。人々はまた麦を挽き、パンを焼き、神々へ供物を捧げることができるようになった。エレウシースの人々も、女神が自分たちの町に来た出来事を忘れず、彼女の命じたとおりに敬い続けた。
それ以来、ペルセポネーが母のもとへ戻るたび、大地は温かくなり、花は咲き、穀物は育つ。彼女が陽の光を離れて地下の宮殿へ帰ると、デーメーテールの悲しみがふたたび野に降り、草木は静まり、土は冷たくなる。母と娘の再会と別れの日々は、こうして年ごとの大地の移ろいの中に刻まれることになった。