
ギリシア神話
葡萄酒、狂喜と神罰の神
ディオニュソスは、ゼウスとテーバイの王女セメレの子で、「二度生まれ」の神話を経てオリンポスの神々の一員となった。彼は葡萄、酒、陶酔、山林儀礼、そして劇的な神聖な無秩序を司り、しばしばやさしく美しい異邦の少年の姿で現れるが、貪欲と高慢、そして自らの神性を認めようとしない者には容赦しない。テーバイ、海賊の船、トラキアのパッレネにまつわる物語の中で、彼は辱められた母の子であると同時に、人を日常の秩序から引きはがし、神の力の恐ろしさを見せる神でもある。
葡萄酒、葡萄のつる、陶酔、山林儀礼、演劇、神罰、神聖な無秩序
葡萄のつる、常春藤、ディオニュソスの杖、鹿皮、酒杯、豹、イルカ、太鼓、仮面
ディオニュソスの物語は、凡人と神のあいだに芽生えた危うい恋から始まる。セメレはテーバイ王カドモスとハルモニアの娘で、ゼウスは彼女を愛して身ごもらせた。ヘラはそれを知ると老女に姿を変え、セメレに恋人の正体を疑わせたうえで、まずゼウスに取り消せない誓いを立てさせ、さらに本当の神威のまま姿を現すよう迫らせた。ゼウスは、人間が雷と神の光に耐えられないと知っていながら、誓いを破ることができなかった。セメレは炎の中で死に、まだ月足らずの子はゼウスによって母の胎から救い出され、彼の太ももに縫い込まれて育てられた。
そのため、ディオニュソスは「二度生まれ」の神と呼ばれる。ひとつはセメレから、もうひとつはゼウスから生まれたのだ。彼の誕生は、セメレが嘘をついていなかったことを証明する一方で、最初から傷と辱め、そして神としての正統性をめぐる争いを背負わせた。テーバイの人々は、セメレがゼウスの名を借りて恥を隠したのだとひそひそ噂したが、その流言こそ、後にディオニュソスがテーバイへ戻ったときに向き合わねばならない核心の対立になった。
ディオニュソスは、葡萄、酒、酩酊、陶酔、山林儀礼、そしてポリスの秩序を一時的に踏み越える力を司る。彼の従者たちはしばしば鹿皮をまとい、常春藤の冠をかぶり、ディオニュソスの杖を手に、太鼓と笛と叫び声の中で山へ入る。彼の神話において酒は、宴の飲み物であるだけでなく、真実を暴き、身分の仮面をゆるめ、貪欲を罰する神力でもある。海賊の船では、甲板に酒の香りが満ち、マストから葡萄のつるが伸び、常春藤が帆索を覆って、凡人の暴力と欲が神のしるしの前にさらけ出される。
彼の姿は矛盾をはらんでいる。やさしい若いよそ者のように見え、長い髪を肩に流し、笑みをたたえ、相手が自分で神だと気づくのを待っているかのようでもある。だが軽んじられれば手がつけられなくなり、女たちを織機から離してキタイロン山へ向かわせ、海賊を恐怖のあまり海へ飛び込ませ、王家の身内にさえ親族を引き裂く狂乱をもたらす。彼は単なる宴の神ではない。歓びと破壊、解放と暴走、恩寵と罰がひとつに結びついた神なのだ。
「セメレとディオニュソスの誕生」の物語では、彼はまだ生まれていないうちから、ヘラの嫉妬、ゼウスの誓い、そして凡人には耐えられない神威の悲劇に巻き込まれていた。この話は、彼の性格の背景を形づくっている。彼はゼウスの子であると同時に、炎に母を奪われた子でもある。後にテーバイに自分の神性を認めさせようとするのも、実のところセメレの名誉を回復するためだった。
「ディオニュソスとペンテウス」では、彼はテーバイへ戻るが、天上の神の威厳をまとって現れたのではなく、若いよそ者に姿を変え、外から来た女信徒たちを連れて町へ入った。狙いは明快だった。テーバイに、自分がゼウスとセメレの子であると認めさせることだ。若い王ペンテウスには、町の女たちが家を出て山へ登り、太鼓が秩序を乱しているようにしか見えず、ディオニュソスを酒と香りと歌で人を惑わす詐欺師だと断じた。カドモスとテイレシアスは彼に神を敬うよう諭したが、彼は新しい神を捕らえ、女信徒を従わせようと固執した。最後にはペンテウスがキタイロン山へ導かれ、神から与えられた狂乱のうちに、母アガウエと叔母たちに引き裂かれる。この神話は、ディオニュソスが高慢を罰するとき決して手加減しないことを示している。神を認めようとしない者は、最も近しい血縁の中でこそ、秩序が崩れる瞬間を目にすることになる。
「ディオニュソスと海賊」では、彼は海辺にひとり立っていたところを、海賊の一団に裕福な若者だと思われ、さらわれて船に乗せられた。舵手は縄がひとりでにほどけるのを見て、その少年は凡人ではないと気づき、船長に手放すよう勧めた。だが船長と仲間たちは、身代金と奴隷市場のことしか考えていなかった。ディオニュソスはすぐに暴れようとはせず、海の真ん中で神跡を起こした。甲板には酒の香りが満ち、葡萄のつると常春藤がマストと帆索に絡みつき、獣じみた恐怖が海賊たちを包んだ。ついには海賊たちが海へ飛び込み、イルカへ姿を変えた。彼を逃がそうとした舵手だけが助かった。この話は、彼が貪欲と冒涜をどう罰するかを際立たせると同時に、正面から怒る代わりに静かに待つこともできる神であることを示している。
「ディオニュソスとパッレネ」では、彼はトラキア地方を訪れ、残虐なシトン王に出会う。シトンは娘パッレネを賞品のように扱い、求婚者たちに自分と競わせ、負けた者を殺した。ディオニュソスはそれを聞いても、いきなり狂騒の従者たちを王宮へ突入させたりはしなかった。まるで遠来の客のように石段を上がり、女が景品にされ、血が規則になるその勝負へ、自ら足を踏み入れた。この物語の彼には、神罰の側面と、暴君の秩序を断ち切る側面の両方がある。
ディオニュソスの神話は、ギリシア人が酒、祭り、演劇、陶酔、集団儀礼をどう理解したかと深く結びついている。彼の力はしばしば、都市の縁、山林、外から来た一団、夜の太鼓の音を通じてポリスへ入り込み、理性による法の外にも神聖で危険な力があることを人々に認めさせる。彼をめぐる儀礼の想像の中では、鹿皮、常春藤、葡萄のつる、ディオニュソスの杖、青銅の太鼓、山の獣は、飾りではなく、日常の身分を越える印なのだ。
彼は文化的な影響の中でも、とりわけ演劇の伝統と結びついている。悲劇も喜劇も、ディオニュソスの祭りの背景の中に居場所を見つける。人々は彼の名のもとに、王家の崩壊、取り違えられた身分、陶酔と屈辱を目撃し、また仮面、合唱、舞台を通して人間の秩序の脆さを見た。だからこそ、ディオニュソスはギリシア神話の中で、単純に飼いならせる酒神であり続けたことは一度もない。彼は絶えずポリスに思い出させる。抑え込まれ、否定され、辱められた力は、いずれより激しいかたちで戻ってくるのだと。
ディオニュソスの性格で最も鮮やかなのは、単なる放縦ではなく、やわらかな外見の裏に潜む危うい忍耐だ。彼はまず、凡人にしるしを見る余地を与える。ほどけた縄、立ちのぼる酒の香り、老人や予言者の忠告、山林で起こる異常な神跡。それでも貪欲、高慢、冒涜にしがみつくなら、彼の罰は、相手が最も頼っている秩序を内側から崩していく。海賊は船を操れなくなり、王権は都市を制御できず、母は息子を見分けられず、暴君の競技は神によってルールごと奪われる。
彼はまた、つねに母の名誉と結びついた神でもある。テーバイへ戻ったとき、彼は自分がゼウスの子であることを認めさせようとしただけではない。セメレが嘘をついていなかったことも認めさせようとしたのだ。だから彼の神罰は、気まぐれな報復ではなく、血筋、母、そして神としての身分を擁護する行為でもある。だが、その擁護はやさしくはない。ディオニュソスは酒、歌、踊り、解放を与えられる一方で、喜びを狂乱へ変え、否認する者に、自分で認めたくない闇を直に触れさせることもできる。